BALLON JOURNAL VOL.7

BALLON JOURNAL VOL.7

 

葉末を渡る香りとドビュッシーの音で静謐とした時間を過ごす晩秋

by editor Mitsuhiro Ebihara

 

コロナ禍の今、家で仕事をする時間が増えている人もいるだろう。オンとオフの切り替えをどうするか悩みどころだ。あわただしいZoomでのミーティングや、LINEでのやりとりを一旦終始し、音楽と香りのペアリングに思考をゆだねてはどうだろうか。ゆったりしたいならフランスの大作曲家ドビュッシーで時を過ごしたい。

 

音楽史における印象派を代表する作曲家、クロード・アシル・ドビュッシー。19世紀末~20世紀初頭を生きた彼は天才中の天才だった。歴史に名を残す音楽家が天才なのは当たり前なのだが、その中でもずば抜けた天才が何人かいる。よく言われるのが神童で夭折したモーツァルト、ピアノ技巧を解放したショパン、シャネルがパトロンだったストラヴィンスキーなどだ。彼らに共通しているのは突然変異型で革新的音楽を生み出したこと。ドビュッシーもそういった作曲家の一人だ。

 

ドビュッシーは、いわゆる聴きやすい調性音楽(ポップスを想像してくれればOK)を逸脱した新しい音楽語法で作曲し、当時の音楽界に衝撃を与えた。彼が生きた頃はそういった従来の作曲法を壊すムーヴメントが起き、晩年のリストやワーグナーらロマン派の作曲家も調性が無い無調に到達している。その真逆に調性音楽はマーラーやラフマニノフなど濃厚に、絢爛豪華に退廃的に肥え太っていた。つまり臨界点を迎えていたのだろう。どちらかと言うと現代では後者の方が人気なのが皮肉ではある。

 

 

イメージを旋律と響きで紡いだドビュッシー

ドビュッシーの音楽は、それまでの音楽が物語や心情を描いていたのに対し、風景などの事象や雰囲気を描いたのが新しかった。それゆえに従来の作曲技法を逸脱した響きが生まれた。有名な『月の光』、『亜麻色の髪の乙女』などを聴いたことがある人は何となくわかるのではないだろうか。音から画が浮かぶ。そして響きはもやもやしつつ色彩的。そのためドビュッシーは当時の美術ムーヴメントである印象派になぞらえ同名の音楽流派にくくられた。こういう視覚的な作曲家は、スクリャービンやメシアンなど数人いる。共通しているのは音を聴くと色が見えるという共感覚を持っていること。ゆえになんだか音楽が色彩豊かなのだ。

 

そんなビジュアル系?音楽家のドビュッシーの作品には、タイトルそのままな『映像』というピアノ曲集がある。ドビュッシー自らシューマンの左に、ショパンの右に位置すると豪語したほどだからかなりの自信作だったのだろう。どれもイメージが浮かぶのだが、特に2巻の第1曲『葉末を渡る鐘の音』が心地よい。

 

「ほとんど聞き取れないほどの木々のさやぎと、静寂な境地、緑の木陰と休息、遠くの鐘の音がその静けさをかき乱すことなく木陰にしみ渡っていく」

 

と本人が説明するように、森林の木々の、森閑とした空気の中を伝って、遠くから教会の音が聞こえてくる。静かであり爽やかであり耳障りは良いがとても複雑。多層的に音響が織られる。それは通常2段で書かれる楽譜が3段で書かれているのを見ても明らかだ。

 

BALLONの新しい香り「フォレストブレンド」のアロマスプレーを香らせながら寛ぐとよりドビュッシーの森の世界を堪能できるだろう。プッシュした瞬間、場所は森林へと移り変わる。シンプルな森の香りを体感するだろうが、心を穏やかに静めるヒノキ、森林浴効果を発揮するユーカリ、美女のアロマと言われるフランキンセンス、体を温めるジュニパーベリーなどが調合され、香りは多層的に編まれている。繊細なニュアンスはドビュッシーと軽やかにマッチすること間違いない。特に寒くなり疲れがたまって来るこの季節に香らせたくなる。マスクや寝具、部屋に振り撒くことで、ドビュッシーと共に空間が豊かに響くだろう。

 

ちなみに演奏はイタリアの完璧主義者アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが白眉。玲瓏なるピアニズムから生み出されるタッチにより鍵盤の雑味が全くなく、変幻自在の音色を生み出す。ドビュッシーのために生まれたかのような手だ。名レーベル・グラモフォンの録音よりも、ライブ録音の方が凄みを感じさせるのでこちらをおススメしたい。

 

 

ドビュッシーは、生まれは裕福ではなかったが貴族趣味で、ソフト帽、スーツ、ネクタイで決め、食道楽、茶と煙草を好んだという。小さいものがお気に入りで、ビー玉が好きだった。交友関係はパリのサロン・カフェ文化の詩人や画家たち。繊細な感性が伝わってくる。そして性格が悪く、女癖もひどかった。他人を褒めることはなく、不倫相手が拳銃自殺してスキャンダルになりパリを追われたこともある。現代日本において文春砲を打たれて謹慎するようなものだったのだろう。

 

そんな二面性があるのも天才らしくて良いじゃないか。

 

 

 

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