BALLON JOURNAL Vol.51

BALLON JOURNAL Vol.51



我々の存在は常に揺らいでいる

 

我々は常に揺らいでいる。感情ではない、物理的な存在としてだ。何のことを言ってるのかわけがわからない話かもしれないが、量子論上、全ての物質は揺らいでおり、正確に観測できない=存在が不確定なのだ。これを不確定性原理と呼ぶ。

量子とは何か?万物は原子の塊だが、その原子や原子を形成している陽子、中性子、電子、更に小さいクォークなどを量子と呼ぶ。とにかくめちゃくちゃ小さい世界だ。そんなミクロの世界では古典物理学は通用せず、量子力学で計測する。

そもそも電子は観測するまでどこにあるか確定しない。観測する以前はどこにでもある状態なのだ。これは本当。よく挙げられる例として、ボールが左右どちらの箱に入っているか?古典力学だと既にどちらかに入っていることは確定しており(人間心理的にもそうだろう)、一方に入っていればもう一方には入っていない。しかし量子力学だと、箱のふたを開けるまで両方に存在している。開けた瞬間どっちの箱にあるのか決まる。観測者が影響を与えることで決まるのだ。このように、万物は確率的にしか存在していない。揺らいでいるのだ。そしてこれはある意味とても人間的な事象と思える。

A:「今晩何食べたい?」

B:「うーん何でも・・・」

A:「・・・じゃあ中華にしよう」

みたいなやりとりはよくあるだろう。Bにとって食べたいものは無限に存在している。しかし、Aの対応によって1点に確定する。荒唐無稽な物理理論に感じるが、この人間という不可思議な感情的な生き物を最も論理的に示している理論と思えるのだ。実際は量子に関しての複雑な数式を必要とする理論なので、現実世界に例えた場合のざっくりと雰囲気の話だが。

こんな哲学的論考をもたらす量子論は度々アンチミステリな推理小説に用いられる。推理小説の要は構築的な論理だが、確率的に存在しないという論理は推理小説として成立しているのか?という疑問が出るかもしれないが、中でも山口雅也の『奇偶』は傑作だ。

偶然たまたま出会う、奇遇ではない。奇数と偶数の奇偶だ。意味はそのまま奇数(半)と偶数(丁)、そして博打。舞台は、アメリカ同時多発テロが起きた日。原発事故やカルト宗教事件が描かれ、ちょっと今読むと一層ゾッとする内容だ。ギャンブルから偶然について挑み、量子力学やゲーデルの不完全性定理、ユングのシンクロニシティなど衒学的な論考が巡らされる。そしてカルト宗教で事件が起こり、そのトリックは……という内容。

日本の推理小説において4大奇書と呼ばれる、夢野久作『ドグラマグラ』、小栗虫太郎『黒死舘殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』、竹本健治『匣の中の失楽』に加えて5書目に連なるレベルの傑作だ。

詳細はぜひ読んで体験してほしい。きっと、あなたの思考が揺らぐはずだから。

 

by writer Mitsuhiro Ebihara

ブログに戻る