BALLON JOURNAL Vol.37

BALLON JOURNAL Vol.37

ベートーヴェンは温泉で傑作を生んだ……かも

寒い。2021-22年秋冬シーズンはとにかく寒い。12月から東京でも連日10度を下回るのは普通。真冬の寒さが肌を刺す。こんな時、日本人ならやはり温泉に行きたくなるだろう。箱根でも伊豆でも伊香保でも、遠出せずとも都内のスパ施設でも、ゆったりと体を伸ばして湯に浸かりたくなる。

近年大変なサウナ流行りだが、私は未だにこの良さが分からない。熱い空間に入り、その後水風呂に入る。これを繰り返すことの何が楽しい&気持ち良いのかまだ実感したことが無いのだ。それよりも、暖かい湯に浸かってのんべんだらりと過ごす方が気持ち良くないだろうか。

温泉は日本の文化だろうと思っていたが、意外と世界各地で温泉が湧き出ており、楽しまれている。ヨーロッパにもイタリアやイギリスに有名な温泉地があり、作曲家たちも湯治に通っていたりする。楽聖ベートーヴェンは難聴に苦しみ、1802年、ウィーン郊外の温泉地ハイリゲンシュタットに滞在し、湯治に行っている。ここが音楽史で有名な、ハイリゲンシュタットの遺書が書かれた地だ。耳疾に悩み、音楽家としての未来が描けず自殺しようとし、遺書を認めたが、温泉に入ったことの結果なのか、絶望を乗り越え、この遺書が25年後の死まで開封されることは無かった。

そして、この苦難を乗り越えた後の数年間、いわゆる“傑作の森”と称される名曲がふんだんに生み出されたベートーヴェン中期がやってくるのだ。交響曲3番「英雄」、オペラ「フィデリオ」、ピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」、23番「熱情」、ピアノ協奏曲4番などなど。どれも血気盛ん、意気揚々で芸術家の神髄を味わうことができる。ピアノ作品について言及すると、斬新で難曲だ。

特にワルトシュタインの新規性には瞠目する。ハ長調で書かれ、冒頭から力強く、テンション高く始まるこの曲は、しかつめらしい肖像画のベートーヴェンのイメージしかない人からすると意外な印象かもしれない。この当時、エラールの新型ピアノが贈られ、広くなった音域としっかりしたペダル機能を持ったこのピアノを存分にベートーヴェンは駆使したくなったのだろう。当時ピアノはまだ開発段階で現代よりも音域が狭かった。新しく開発されるたび拡大される音域をベートーヴェンは必ず使って作曲していた。

2021年ショパンコンクール優勝者のブルース・リウの演奏を聴いてみよう。難所も楽勝だ。

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ワルトシュタインはペダルも存分に響く。3楽章は中音域のトリルの伴奏の上に輝かしい主題が乗り誠に歓喜なる様相を呈す。ここも十分難所なのだが、その後どう弾くか問題として名高いオクターブグリッサンドがやってくる。ここをグリッサンド=滑らせて弾くか、両手に分けてスケールで弾くか、常に論点となるところだ。ちなみに当時のピアノは鍵盤が軽くオクターブグリッサンドが容易だったらしいが、ベートーヴェン以外で見たことが無いのでやはり彼はピアニストとしての腕も超一級だったのだろう。とにかくこんな豊かな曲を書いた人が数年前には自殺をしようとしていたなんて全く思えない。ハイリゲンシュタットの温泉ありがとう!!と感謝しかない。

ちなみに現地の温泉はベートーヴェンの死の2年前に開発によって閉じられているので現在は湯治はできない。しかし、ベートーヴェンが滞在した家が現存しており、現在彼の記念館となっている。

さて日本では冬至の日に柚子湯に入るが、これは冬至=湯治と掛けているかららしい。実際芳しい香りを放つ果実を入れるとバス時間は豊かに、気分も落ち着きリラクゼーション効果抜群だ。まだまだ寒すぎる今冬、ベートーヴェン中期の傑作を聴きながら入湯しようではないか。


by writer Mitsuhiro Ebihara 

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