BALLON JOURNAL Vol.28

二つの幻想の月

 

秋といえば観月の候。月はその幻想的な印象から音楽家にインスピレーションを与えており、有名な曲がいくつか作られている。とても有名なのは、ベートーヴェンのソナタ14番月光、ドビュッシーのベルガマスク組曲第3曲月の光だろう。前者は実はベートーヴェンの命名でなく、彼の死後、詩人ルートヴィヒ・レルシュタープが第1楽章を「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と評したのがきっかけで「月光」という呼称が一般的となった。ベートーヴェンは幻想曲風ソナタと名付けており、その幽玄な趣は作曲者の意図するところであったのだろう。確かに両曲ともにファンタスティックだが、どこか夜の黒みが足りないと思う。

一方、ロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービンは、旋律は蠱惑的、響きは官能的でとても夜に似合う。ショパン的な影響が濃い前期も、スクリャービンの特徴が色濃く表れている神秘的な後期も音が黒みがかっている。でもその黒さは漆黒でも墨黒でもなく、鮮やかで粘着質。形容が難しいが、写真家・野村佐紀子の作品集『黒闇』に彩度が近い黒なのだ。

自身優れたピアニストでもあったため、ほとんどの作品がピアノ曲だ。それも難曲ぞろいだ。というのも、彼は練習しすぎて右手を壊したことにより、左手の運動機能が発達。そのため左右がバラバラに動き独特のリズムで進行する。その浮遊感あるリズムは、スクリャービンにとって大事な要素である飛翔や舞踏感を生み出している。ゆったりした小品Op52-1やOp69-1などの詩曲は暗い宇宙空間を揺蕩っているような感覚になる。




どれを聴いても夜にぴったりなのだが、中でもソナタ第2番幻想ソナタは月に合う。モスクワ音楽院卒業後に完成したこのソナタはポリリズム、クロスフレーズなど網の目状に張り巡らされた音のテクスチュアが両手の独立を持ってこそ可能とした名曲だ。



2楽章構成で、第1楽章はこの上なく美しい。スクリャービンはこの楽章について「海の力。最初の部分は南国の海辺の夜の静けさを表している。展開部は深い深い海の暗い動揺だ。ホ長調の部分は宵闇の後に現れる、愛撫するような月の光を表している」と書いている。夜の波間を照らす繊細な月の光のように煌びやかに歌われる展開部の16分音符など夜の真骨頂だろう。ぜひ、湿度が下がり、少しひんやりとした秋の夜長に聴きたい。


 

第2楽章は一転してプレストの無窮動で息がつけない。「嵐に波立つ海の広大なひろがり」とスクリャービンは書いているように音が波立っている。演奏は暗くて劇的なポゴレリッチがおススメだ。より夜で月に合うだろう。

そういえば、ベートーヴェンの幻想曲風ソナタ「月光」も終楽章が雷鳴轟く嵐のように激しいプレスト楽章だった。とても官能的なスクリャービンなのだが、作曲の構築性ではベートーヴェンを模範としていたことを思い出す。

2021年の中秋の名月は9月21日という。日本は同時に台風、長雨の季節でもある。両幻想ソナタの終楽章のように、暴風雨の夜にならず観月できることを祈ろう。


by writer Mitsuhiro Ebihara